2011.06.29 音を届けに 〜盛岡市・山田町・陸前高田市・気仙沼市・大船渡市〜
6月29日
27日の福島から戻り、翌々日の出をまた待たずに出発。
今回は3日間で5校の学校に行く予定。
使用出来ない道路が多々あったため、移動は長時間を要しました。
始めに訪れたのは、岩手県盛岡市にある盛岡市立桜城小学校。
この地域は、軽被災地で、多くの重被災地の方を受け入れているそうです。
西村が約10年前、学校コンサートを始めるきっかけを作ってくれた小学校です。
今回の公演の実現に向け、各学校に声をかけて下さった平井副校長先生と再会。
コンサート前、給食を6年2組の皆さんと頂きました。
コンサートは、400人近い全校生徒が一体となり、元気いっぱいでした。
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終演後、控え室にピアノを譲って欲しいという方がみえ、お話をしました。
実家が流され、盛岡に避難している保育士の先生で、演奏を聞いて、またピアノが弾きたくなったと話してくださいました。何かひとつでも目標が見つかった事、心が動いたことに、私たちも感動。と同時に、避難している方の実状を知りました。
世間の目はどうしても被災地に向けられるため、避難先にいると、支援の手や情報が廻ってこないのだと。
この震災のあらたな問題点を垣間みました。
学校から帰る途中、沿道に、運動会の応援の練習をしていた生徒が集まってくれました。たくさんの元気とエールをもらい、
明日からの被災地活動に向かいます。
6月30日
恒例になりつつある朝日を見る前の出発。
この日は山田町の小学校を2校回りました。
まずは、山田町立山田南小学校。
間違えて校舎の裏側に行き、正門に引き返す道中、グラウンドや体育館が避難所として使われている光景を目のあたりにしました。
歓迎の幕でのお出迎え。
2階の図書室に用意してもらったアップライトピアノで、低学年、中学年、高学年と3回に分けてコンサートを行いました。
岩手県内重被災地での初めての演奏となる、低学年の会。
どのように反応してもらえるのか不安でしたが、ピアノの音に合わせて手拍子したり、歌ったり。その盛り上がり方に、嬉しさや、ほっとした気持ち、いとおしさなどが一気にこみ上げてきました。そして最後に、代表の生徒さんから心のこもった感想を頂きました。
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ご父兄や、グラウンドの仮説住宅に住んでる方も数組、訪れていて、自己紹介し合ったり、どこの棟に誰が住んでいるなどの情報交換をする方もいて、今回の公演が、新たな交流の場となり、お役に立てたことも嬉しかったです。
午後は、山田町立山田中学校へ。
道中、今まで見た事の無い光景をみました。
まるで、戦争の後のように焼け野原となっているのです。
言葉を飲み込んだまま、学校に到着しました。
木の香りのするオシャレな校舎は、一瞬惨劇を忘れさせてくれます。
校長先生が控え室に案内して下さる際、当日の話をしてくれました。
火災が多発したこの地域。高台にあるこの学校はかろうじて助かりはしたものの、ギリギリまで火の手が迫り、廻りが火の海と化した光景が、目に焼き付いて離れないと。
控え室で、用意して下さった配給の弁当を頂きました。
中学生は多感な年頃なだけに、どう受け止められるか不安でしたが、迎えてくれたのは元気な手拍子とかけ声でした。1年、2年、3年とコの字型に座った生徒に囲まれてのコンサート。3年生からは、俺たちがくよくよしてはいられない、という気丈な雰囲気も感じられました。最後の校歌では、盛り上がってパイプ椅子に立って大声で唄う生徒が続出。大盛況の中終演、入場の時以上の手拍子で見送って頂きました。そんな中、対照的に、壁づたいに床に座り、うつむいたままの生徒4〜5名の存在が気になりました。
控え室に戻り、調律師さんとピアノを失ったピアノ教室の先生と会いました。
先生は、この日コンサートがあると知らずに、「Smile Pinao 500」にピアノを譲って欲しいとエントリーして下さっていました。不思議なご縁を感じます。
また調律師さんの安否がわからず、心配されていたそうで、この日の再会を涙で喜んでおられました。
校舎を後にし、車に乗ろうとした時、生徒が数十人集まって手を振り、見送ってくれました。
7月1日
最終日、気仙沼へ。午前は、陸前高田市長部小学校。
活動の報告の「2011.06.05 祈念の植樹と陸前高田の町」でも書きましたが、高台にある長部小学校以外は、見渡す限り壊滅状態でした。
生徒や先生達は、無事なのかと不安になりながら学校へ到着。
出迎えてくれた校長先生も被災されたとのこと、笑顔の少ない表情からも
大変な思いをされたことが伝わります。
校長室に飾られた船の模型、港の絵など、この学校と海との関わりの深さを感じました。しかし、今では歌詞に海の文字が入っているので、校歌も唄う心境ではないと。
本当に来てよかったのだろうか、不安のまま控え室で準備をしました。
窓からは、運動場に立ち並ぶ仮設住宅が見えました。
すると、ドン!と激しく下から突き上げる衝撃が。
余震です。
ガラスや建具のきしむ音が続き、恐怖のあまり絶句。
しかし、生徒たちは全く動じません。
この程度では、なんとも思わなくなっているのです。
コンサートは、1〜3年、4〜6年と2回に分けて行われました。
低学年は無邪気に楽しんでいる姿、高学年は、かみしめるように音楽に集中する姿が、印象的でした。何より、そんな生徒の姿を素敵な笑顔で見守る校長先生の姿に、心を打たれました。
そして終演後、「必ず復興するからまた会いにきて」と蘭の花を頂きました。
移動中、近くの気仙小学校に立ち寄りました。
周辺地域の避難所と指定されているこの校庭に、震災直後、生徒や地域住民が集まったそうです。しかし、この土地のことを良く知る先生のとっさの判断で、学校から裏山へと皆を誘導し、全員無事だったそうです。
その話を聞いて校舎を見に行くと、原型をとどめないほどの被害を受けていました。判断を間違っていたらと思うと、恐ろしくなりました。
もう一校、6月初め訪れた米崎小学校に寄りました。
前回会えなかった、ピアノを流された女の子と、前回お会いした避難所受付の浅井さんに、会うためです。駐車場に車をとめようとすると、前回お会いした女の子のお母さんに遭遇。突然の訪問もあり、残念ながら女の子には今回も会えませんでしたが、メッセージを伝えてもらうことにしました。
体育館は避難所としての役目を終え、浅井さんの姿も見えませんでした。
会えなかったのは残念でしたが、復興に向かって少しでも前進していることを肌で感じながら、学校を後にしました。
車中で食事をしながら、次の学校へ。
震災直後テレビで何度も繰り返し津波の映像が流れていたのは、この町大船渡市。
訪れたのは、大船渡市立甫嶺小学校。
この学校に、被災した崎浜小学校、越喜来小学校の3校が同じ校舎で生活をしています。3校の先生・生徒が混在する中、急に泣き出す生徒など、マニュアルにない予期せぬ行動への対応の苦悩などの話を伺いました。
そんな中、窓口となって頂いた甫嶺小学校の副校長先生の笑顔がムードメーカー的な存在でした。
開演前の準備中、なんと桜城小学校の平井副校長が激励に来てくれました。
コンサートの音当てクイズでは、はりきって手を挙げるも、照れてモジモジして答えられない女の子がいたりなど、ほのぼのするコンサートでした。
終演後、会場となった体育館は、明日から転校する生徒のお別れ会の場と変わりました。ドッヂボールをしたり、泣きながら抱き合う生徒達。恐らく、避難による転校。本人、そして見送る友達の心境を想像すると、胸が詰まりました。
また、皆を盛り上げていた副校長先生は、実は家が流されていたことを聞き、気丈に振る舞われていることを知りました。
帰路の沿道に、起喜来小学校が見えました。
周辺の街も含め、全て流され、コンクリートだけが残っている状態でした。
先程まで一緒だった生徒達の笑顔が、目に浮かびます。
この3日間で訪れた学校は5校。
8公演行うことができました。