2011.04.28 被災地をたずねました
東北へ向う
高速道路の復旧はとても早く、この日も車で向うことが出来ました。しかし、大きな地震は道路を歪ませていました。大きな補修があった場所は車が大きく揺れます。
途中、何度も警察車両の団体に会いました。「愛知県警」「神奈川県警」日本全国から、被災地に向っています。
サービスエリアなどでは、「自衛隊」や「広域救助隊」の方々がたくさん。ほんの束の間の休憩を取られていました。交代で救助活動に向うのでしょう。
仙台市内
仙台市内に着くと、街は想像していたよりも、生活が保たれているようで、コンビニの商品も充分に補充され、24時間営業も問題無くされていました。
ただ、街を歩くと、所々に壁やガラスの割れた痕や、ネットやビニールで被われているビルがいくつかあり、大きな揺れに見舞われたことがわかります。
まず立ち寄ったのは、私がコンサートツアーなどでお世話になっているイベンター「GIP(ジー・アイ・ピー)」の事務所。久しぶりに会えたスタッフの顔を見て、本当に嬉しく涙が出そう・・・。「無事でよかった・・・」心からホッとした瞬間。
地震が起きた当時のことから、その後の動きなどの貴重なお話を伺いました。GIPの方が、被災地や避難所を回り収集した情報やデータが大変丁寧にまとめられていて、今後の多くの災害に役立つ資料だと思いました。また「スマイルピアノ500」の活動に賛同頂きました。これから頻繁に連絡を取り、協力し合っていくことになりました。
昨年のコンサートツアーで公演を行った会場を訪ねたかったのですが、会場自体の被害も大きく、今は被災者の方の避難所になっているとのことで、今回は見送ることに。
七ヶ浜へ向う
「GIP」の事務所を出て、仙台市内から車で海の方向へ。向うのは「七ヶ浜」。仙台市からほど近い海辺の町です。思ったように車が進まないのは、まだ復旧していない信号機が多いから。
車で20分くらい走った頃、急に町の雰囲気が変わったことに気付きます。町が全体的に茶色っぽい感じです。津波が押し寄せた地域に入ったことが判ります。まだ海から10キロも離れている場所なのに、良く見ると住宅の壁には、海水が入って来た痕跡が見えます。
途中、突然の瓦礫の山。写真では判りにくいと思いますが、ビックリする瓦礫の量です。
道路が整備されたとは言え、まだまだ道路の脇に、車や住居の残骸が残っています。
突然、道路に船が・・・。津波はどんな力でこの町を呑み込んだのか。
想像も出来ない光景です。
避難所「七ヶ浜国際村」へ
事前に連絡を取り合っていた避難所のスタッフ鈴木さんを訪ね、地震直後から現在にいたるまでのお話を伺いました。避難所となっている「国際村」は、高台にあり、偶然にも津波を逃れたそうです。大きな揺れの後、スタッフ全員で水の出るうちに水を確保し、屋上に上がって来た時には目の前が海になっていたと言います。
避難所の敷地の中には瓦礫が散乱し、本当に津波が目の前まで襲って来たことが伺えます。
屋上に案内していただき、目の前の町並みを見て愕然としました。何も残っていないのです。
鈴木さんは「もう20年も町を見て来たのに、元の姿が思い出せないんです。」とお話して下さいました。
避難所で活動するボランティアの方々にもお話を伺いました。
支援物資は充分に足りているとの事で少しホッとするものの、避難されている方々の状況は様々で、元気な方はお散歩されたりもするが、住居スペースから出てこられない方もいらっしゃるそう。
施設ロビーには沢山の支援物資が・・・
現在は、水や食料、生活用品の他に、オモチャや本など、心を癒すための物資も送られて来ます。
物資のヨコに、小さな送り主からのメッセージ。壁には、子供たちの絵。
手すりには毛布やタオルなどが干されていて、現在はここが生活空間である事を知らされます。
避難所のあちこちに、さまざまな支援の張り紙があります。
アレルギーの事、住居の消毒について、歯科の事、学校までのバスの時間表・・・
思えば、「そうだ、これも必要だな」と思いあたることばかり。多くの方の細かな配慮の上に本当の意味の支援は成り立つのだと思います。食べる、寝る、だけでは生きて行けない事を実感します。
細かく丁寧な支援が必要です。ここはそれがきちんとなされている避難所でした。
ペットの餌や、お散歩のケアまで。
七ヶ浜の町
「国際村」から見せていただいた七ヶ浜の町に降りてみました。
瓦礫はすでに、かなりの量が撤去されていましたが、そこにあったのは何も残っていない惨状でした。
自衛隊や救助隊の方々の姿も多く、まだ行方不明者の捜索が続いています。
戦争でも起きたのかと錯覚を起こします。
遠くから見ていて「瓦礫」だと思っていたものは、住居だったことが判ります。2階部分しか残っていない家々が、いくつも点在しています。
近くまで行くと、茶色い景色の中から色鮮やかなものが目に飛び込んできます。洋服、布団、食器、家具・・・。それが生活用品だと気付き「ここに生活があった」ことを感じます。
普通に存在した“確かさ”が失われる。恐怖というより喪失感。言葉では表せない感覚です。
福島へ
福島の白河へ向うために、七ヶ浜を後に。
高速の入口付近は、津波の被害が甚大でした。遠くどこまで見渡しても海なんか見えません。
いったい、どこから海はここまでやって来たのか?想像を超える震災であった事がわかります。
福島の軽被災地で考える事
夕方近く、福島県白河市に到着。
震災前から市民活動の支援をされているHさんとお話をさせていただきました。
福島と言えば、地震災害、津波災害よりも、福島第一原発の事故が大きな問題となっています。
白河市は、被災地の中でも軽被災地のため、一部の方を除いて通常の生活が保たれています。
そのため「元気な私たちが重被災地への支援を行いたいが、福島というだけで被災地と思われている」というジレンマや、住民の中には「自分たちも被災者だ」と、支援活動に対して消極的な意見もあると言います。軽被災地であるが故、被害の小さな差で心を痛めたり、意見のぶつかり合いがあるようです。
また、常に放射数値を気にされて生活していらっしゃいます。「今日の数値は0.7マイクロシーベルトだ」と教えてくれました。
ここ白河では、生活自体よりも、恐怖心や不安感を伴う、心の被害が大きいと感じました。
出来るだけ近いタイミングでの「心のケア」が必要と思います。
帰京
大変短い時間でしたが、初めて被災地を訪れ、場所や時期によって、必要とする支援の内容が大きく違う事が判りました。
これから「スマイルピアノ500」の活動を行っていく上で、今回お会い出来た方々の姿を胸に留めて、私にできる事を少しずつ行っていこうと、心に誓いました。