2011.06.05 祈念の植樹と陸前高田の町
今回は「スマイルピアノ500」スタッフによるレポートをお届けします。
拠点の町「一ノ関」
6月4日の夜、一ノ関に到着。
土日を利用してボランティアに来た方々で、ホテルはどこも満室。
震災から約3ヶ月経った現在、一ノ関駅周辺の状況は、特に大きな被害は見当たりませんが、定食屋さんのドアには「がんばろう東北」と書いてあり、その隣には「ボランティアの皆さんありがとうございます」と書かれた張り紙も・・・。
「森は海の恋人植樹祭」へ
5日早朝から、植樹祭が行なわれる岩手県一関市室根町の「ひこばえの森」へ。
この日、第23回「森は海の恋人植樹祭」が開催されました。
「森は海の恋人」とは、気仙沼湾で牡蠣養殖業を営む畠山重篤さんが「豊かな海は、豊かな川が作る。豊かな川は、豊かな森が作る。自然は全て繋がっている。」という信念のもと、自然環境保全のために長年に渡って続けて来た植樹活動です。
東日本大震災の影響で、人や町はもちろん、海を中心とする自然や漁場も大きな被害を受け、今年は海の復興を祈念した植樹祭となったのです。
今回は、西村由紀江の仕事や活動を通じて知り合った方々と「スマイルピアノ500」スタッフ有志で、植樹祭に参加する事になりました。
今年の植樹祭会場は、多くの参加者で溢れていました。例年には無い参加者の数だそうです。子どもからご年配の方まで、たくさんの方々が、続々と開会式の会場に向けて、山を登って来ます。ほとんど登山です。普段、都会でぐうたらしている「スマイルピアノ500」スタッフにとっては、肉体疲労が半端じゃありません。開会式前に、既にバテバテです。
「森は海の恋人植樹祭」代表の畠山さんと、オークヴィレッジの稲本さんを発見!稲本さんは「100年かかって育った木は100年使えるものに」を合い言葉に、小物から建築物まで、再生可能資源で社会を創ろうと活動されています。稲本さんが手にしているのは、「樹を植えた男〜フレデリック・バック展」のガイドブック。今回、西村由紀江は「フレデリック・バックの映画」で、トークショーをさせて頂くことになっているのです。映画配給のスタジオジブリのスタッフさんも“樹を植える”繋がりで植樹に参加。
他にも、環境問題に取り組む大手企業の「イオングループ」さんや、人と地球の健康を求め環境活動を行なっているカタログ通販の「フェリシモ」さんなど、多くの企業や団体が参加されていました。
マスコミもわんさか!生中継までされて大騒ぎです。
開会式の会場から200mほど山を下ると、植樹会場です。
ここに約1000本の苗木を植えます。
皆で苗木を植えました。
「スマイルピアノ500」として、1本のナラの木の苗を植えて来ました。
この木が育ち、ピアノにはならずとも、人の心を癒す小さな楽器になるかもしれないと思い、心を込めて植えました。
記念に「スマイルピアノ500」と記しました。大きく、大きく、育ちますように。
ここがやがて森になり、川を潤わせ、山や田畑に恵みを届け、海の栄養となりますように。
被災した人にも、自然にも、この思いがつながって行きますように。
重被災地「陸前高田」へ
植樹祭の地を後に、向ったのは陸前高田市。
途中の道路は、所々亀裂が入っていたり、波打っていて、スピードを出すととても危険です。
山道のカーブをいくつも越えて、あるカーブを曲がったとたん、瓦礫の街があらわれました。
景色があまりに突然変わったので、初めて被災地入りするスタッフは「えっ?」と言ったきり、言葉も出ません。
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避難所「米崎小学校」にいた少女を訪ねる
陸前高田へ向ったのには、理由がありました。
以前、報道番組で見た、津波でピアノを流されてしまった女の子を訪ねるためです。
その番組見た西村から手紙とCDを預かったのです。
今回、それを届けるために、私たちは避難所になっている「米崎小学校」を訪ねました。
この日は日曜日だったため、生徒さんはいませんでしたが、既に学校が始まっていて校舎は、複数の学校の生徒さんが通っているようです。
校庭の入口付近には、自衛隊のテントと簡易に作られた浴場がありました。
それぞれの入口には自衛隊の担当の方が受付をされています。
避難所の様子
校庭にはプレハブの仮設住宅が建てられていました。
私たちから見ると、少々無機質に建ち並んでいるように感じられますが、被災者の方にとっては、人目を気にせず横になったり、食事をとったり、着替えたり、そんななんでもない普通の生活の一部を取り戻すための、心の休まる空間なのでしょう。
避難所になっている体育館を訪ねてみると、中はとても静かです。
まだ多くの避難者の方が生活をされていて、漂う緊張感を感じました。
皆が、まわりに気を使っているためでしょう。
声をかけることさえ躊躇するような空気感です。
手紙を渡す相手の女の子は、今年の4月から高校に通い始めた「アユミさん」。
今は校庭の仮設住宅のひとつに、家族と一緒に住んでいました。
残念ながら、アユミさんは出掛けていてお会いする事は叶いませんでしたが、お母様とまだ幼い弟さんにお会いする事が出来ました。
西村由紀江から預かった手紙とCDを渡し「いつか状況が整ったらピアノを届けに来たい。」とお伝えしました。
お母様は「ありがとうございます。」と喜んで下さったものの「いつになるかしら・・」と寂しそうにお話しされていて、胸の詰まる思いでした。
避難所の受付で、1人の女性に会いました。
東京からボランティアに来ている、浅井さんです。
浅井さんは、4月からずっとこの避難所で、被災者の方々のために、ボランティア活動をされています。
活動は長期に渡っていて、避難所の方々にとても信頼されているのです。子供たちも校庭で作った“泥だんご”を見せにやって来ます。
浅井さんが、何故このような活動をする意思を持てたのだろう?と思い、質問しました。
「ちょうど3月で仕事を辞めることになっていて、その時にこの震災が起きました。ボランディアに来ない理由が無かったからです。」と話してくれました。
私たちは仕事や、自分の生活を理由に、なかなか思ったような形での支援が出来ない分、浅井さんの存在とその優しさ、強さに、本当に心から感謝しました。
浅井さんに「遊ぼう!」とねだる避難所の子ども。
笑顔がかわいい。
学校のフェンス越しには、瓦礫野原が間近に見えます。
生徒たちが学ぶ傍ら、このフェンスから見える景色が、穏やかな人々の営みの風景となるよう、祈ります。
陸前高田の町へ
米崎小学校を後に、町の方へ向ってみました。
これは団地だったのでしょうか。
5階建ての建物の、4階までがベランダや窓が全て失われ、空洞になっています。
どんな高さの波が押し寄せたのか・・・。
公共の施設だったのだと思いますが、何屋さんだったのか見当もつきません。
頑丈な鉄骨がたわんでいます。
町の中は、どこまでもどこまでも続く惨状です。
瓦礫の中の道ばたに、所々に物が並べてあることに気がつきます。グローブや数珠など色々なものです。
きっとボランティアの方が片付けの際に「きっと大切な物に違いない」と思って、捨てずに残したものなのでしょう。けれど、持ち主は取りに来ることのできない現実。グローブの持ち主の男の子はどこにいるのだろう?良くない想像が巡ってしまい、涙が溢れます。
陸前高田の現実を知る
途中、70代くらいの女性2人に会いました。地元にお住まいの方で、震災当日のお話や、現在の生活の状況など、詳しくお話して下さいました。
今日は、地震が起こってから初めて、この場所を訪れたのだそうです。
「怖くてずっと来られなかったけど、そろそろ片付いたかな?と思って、友達を誘って見に来てみたんだけど、まだこんなだわ」と辺りを見渡しています。
「あそこが市役所で、こっちが農協。向こうが銀行で、そこは病院。ここは大きなデパートだったんだ」と指をさしながら話してくれます。私たちは、自分たちが陸前高田の中心地にいつの間にか立っていた事に、やっと気がつきます。
水道も、つい最近までとまっていて、「今でも赤い水が出るんだよ。ちょっとしょっぱいね」と仰っていました。ライフラインがまだまだ回復していないのです。
女性が指差した市役所の横に、車が高く積まれています。これは片づけて積んだのではありません。
津波でここに車が溜まってしまったのです。
町の中でも、ここは大きなデパートだったのだそうです。
壁も無く、天井からはダクトなどがむき出しになってぶら下がっています。
中は空洞で、ビルの向こう側の景色が見えています。
目の前で止まった津波
お二人のうちの一人は、地震当時、ここから少し離れた別のスーパーで買い物をしていたのだそうです。そこに地震が起きました。訳も分らず、とにかく帰ろうと思いバスに乗り込みましたが、運転手さんも誰もいません。そんなとき、道行く人に「早く逃げろ!津波が来る!」と、引っ張られました。うまく動かない足を引きずりながら、スーパーの店員さんや、若い人が必死で手を引いたり背中を押してくれて、やっとの思いで高台に登りました。
津波は目の前1メートルの所で止まったそうです。
そのスーパーはどうなったのかと聞いたら、「もう、なんにも無いんだよ」とおっしゃいました。
「知らないもの同士だけど、こうして生きて会えて嬉しいね」と思わず手を取り合いました。
この人たちの前で泣いてはいけないと思いました。
やさしさと強さ
実は、帰りに小銭入れを無くしてしまった事に気付き、植樹祭の会場に電話をした所、わざわざ小銭入れを送ってくださいました。
そこには手紙が添えてあり、地元の方のやさしさと強さを改めて感じました。
避難所からのメール
後日、避難所の受付で会った浅井さんからもメールをいただきました。
その抜粋です。
「震災から三ヶ月弱が経過しましたが、
変わらず足を運んでくださる皆様に勇気付けられる日々です。
日が経つにつれ世間の興味関心が薄れていくのは仕方のないことと思いますが、
それでも忘れず、関わり続けてくださる方々がいるという事実に、
被災者のみなさんも支えられているように思います。
お忙しい中大変かと思いますが、
ぜひ引き続きお心に留めて関わり続けていただけると私もとても嬉しいです。」
何も仰々しい事ではなく、形や大きさにとらわれず、思いを行動にしてして行こう。
そう、思いました。